1冊通読したので、しばらく休みます。

とりあえず、当初の目的は充分に果たせたのではないか
と思っています。
しかしもしかすると、ただの自己満足だったのかもしれません。

自分の経験からも分かるのですが、
ファンダメンタリストは聖書を疑うことを恐れます。
そして、それは決して杞憂ではないのです。

たとえば、私も、礼拝で唱えている主の祈りの
「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」
という文が実は聖書には含まれていないのだ知ったときは、
かなり驚きました。

「主の祈りはイエス様の言葉だよ」と教わっていたのに、
その中に「イエス様の言葉」ではないものが混ざっていた
わけですから、これは大変なことです。

こういうことはいったん気にし始めると、
「他の個所にも混ざり物があるのではないか」
と疑わずにはいられなくなります。そして、
「ここは後世の写本で付加されたのではないか?」
「ここは福音書の著者が書き換えたのではないか?」
などと進んでいくうちに、
聖書の権威は崩壊してしまうのです。

それなら最初から「自分の使っている聖書に混ざり物は無い」
と決め付けて疑わないのが、
ファンダメンタリストにとっては得策なのです。

もっとも、いくらファンダメンタリストと言えども、
これが主の祈りに含まれていなかったことは
認めざるを得ないはずです。
重要な写本や文献に軒並み含まれていないからです。

B.M.Metzger, A Textual Commentary on the Greek New
Testament
, United Bibie Societies,1971,PP.16-17
によると、これを含んでいないのは次のとおりです。

  ①アレクサンドリア型の代表格の古い重要なもの
   (シナイ写本、ヴァチカン写本)
  ②西方型(ベザ写本と古ラテン訳の大半)
  ③前カイサリア型のテキスト(小文字写本家族1)
  ④教父による主の祈りの注解の古いもの
   (テルトゥリアヌス、オリゲネス、キュプリアヌス
   のもの)

ところが新改訳は、上記の個所の脚注に
「最古の写本ではこの句は欠けている」と記載しています。
これではまるで、最古の写本(単数)では欠けている
けれども、他の写本には含まれているみたいです。

この表現にも、自分たちの信仰をなんとか守り通したい、
というファンダメンタリストの思いがにじみ出ています。

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第2コリントス9・4

★田川訳
 さもないと、マケドニア人が私と一緒に来て、
 あなた方が準備ができていないのを見たら、
 この事柄に関して恥をかくのは我々である。
 あなた方が恥をかくかどうかは敢えて言わぬことにするが。

★新改訳
 そうでないと、もしマケドニヤの人が私といっしょに行って、
 準備ができていないのを見たら、あなたがたはもちろん
 ですが、私たちもこのことを確信していただけに、
 恥をかくことになるでしょう。

「確信」が伝統的な訳で、大正訳以来そのように訳されて
きました(明治訳は「疑はず」と訳しています)。
英語訳もKJV以来そのように訳しています。しかし、
20世紀半ば以降は「この語にそのような意味は無い」という
説が優勢になったようです。

「この語自体はギリシャ語で大量に用いられているけれども、
ユダヤ教ギリシャ語文献を含めて、いかなるギリシャ語文献
でもほかにはそんな意味で用いられている例は見出されない」
(田川註、491ページ)。

「ユダヤ人のギリシャ語ではこの語が「事柄、現実」といった
意味で用いられていたのは、七十人訳の諸用例からして
まず確かだろう」(同492ページ)。

さらに詳しくは該当個所をご参照ください。

とはいえ、聖書学者たちの研究の成果が保守的な人たちに
受け入れられるには、まだまだ時間がかかりそうです。

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第2コリントス8・10、20

★田川訳
 このことについて、意見を述べよう。
 我々がこういう準備をしたのは、我々が務めたこの豊富な
 もの
について、誰も我々を馬鹿にしたりしないためである。

★新改訳
 この献金のことについて、私の意見を述べましょう。
 私たちは、この献金の取り扱いについて、
 だれからも非難されることがないように心がけています。

パウロはこの8章で明らかに「エルサレム教会への献金」
のことを語っています。それにもかかわらず、
「お金」を意味する表現は使っていません。
つまり、意図的に避けていると考えられます。

それなのに、「献金」「献金」と繰り返すようでは、
原文の雰囲気が丸つぶれです。

英語訳ではお金を意味する表現は避けているようです。
日本語訳では大正訳以来、「醵金」などの表現を
訳文に組み込むようになっています。

確かにそのほうが分かりやすいのですが、
忠実ではありませんし、パウロの態度の変化が伝わりません。

第一の手紙では、パウロはもっとはっきりと言っています。

 聖者たちに対する募金については、ガラティアの諸教会に
 命じておいたのと同様にあなた方もまたなすがよい。
 (1コリントス16・1、田川訳)
 ※新改訳では、この「募金」を「献金」と訳しています。

「聖者たちに対する募金」とは、エルサレム教会への献金
のことです。
つまり、第一の手紙の時点では、はっきりと「募金」と言い、
しかも「命じた」と言っています。

ところが、2コリントス8章では、献金のことを語りながら、
献金を意味する表現を避け、しかも
「これは命令としてではない」(8節)と言っています。

明らかに、パウロの口ぶりは変化しています。

詳しくは、ぜひ、田川註471~480ページなどを
ご参照ください。

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第2コリントス7・3

★田川訳
 実際、前にも言ったが、あなた方は我々の心の中にいて、
 共に死に共に生きるのである。

★新改訳
 前にも言ったように、あなたがたは、
 私たちとともに死に、ともに生きるために、
 私たちの心のうちにあるのです。

原文では、だれと共に死に、だれと共に生きるのかは、
示されていません。しかし日本語訳では口語訳以来、
当然のことのように「わたしたちと」を補っています。

しかし、それは決して当然のことではありません。
たとえば英語訳では、新改訳の同類のNIVが
"(with) you"(あなた方と)を補っています。
(KJVも "you" を補っていますが、イタリック体で表記して、
原文には無いことを示しています。)

もしくはここには「キリストと」を補うべきなのかも
しれません(田川註、462ページ)。
「キリストとともに死に、キリストとともに生きる」
という表現がローマ6・8にあるからです。

いずれにせよ、翻訳のせいで解釈の幅が狭められてしまう
のは、読者にとって不幸なことです。

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第2コリントス6・1-2

★田川訳
 我々は(神と)共に働く者であるから、また、あなた方が
 神の恵みをいたずらに受けることがないようにと呼びかける。
 神は言っているのだ、「ふさわしい時にあなたに
 耳を傾けた。救いの日にあなたを助けた」と。
 見よ、今は良くふさわしい時、見よ今は救いの日である。

★新改訳
 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。
 神の恵みをむだに受けないようにしてください。
 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに
 答え、救いの日にあなたを助けた。」
 確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。

ここではイザヤ49・8が引用されています。

田川の註(455ページ)によると、ヘブライ語原文なら
6・2は「ふさわしい」とも「恵みの」とも訳せるけれども、
ギリシャ語訳(七十人訳)はそれを「ふさわしい」(dektos)
と訳し、パウロはそれをそのまま引用しているので、
これを「恵みの」と訳すわけにはいかないそうです。

しかも、すぐに続けてこの「ふさわしい」を
「良くふさわしい」(euprosdektos)と言い換えていますから、
この語はますます「恵みの」と訳すわけにはいかないそうです。

しかしなぜか、ここもイザヤ書のほうも「恵みの」と訳すのが
明治訳以来の日本語訳の伝統になっているようです。

英語訳は基本的に「ふさわしい」の意味で訳しています。
accepted や acceptable は明らかにそうですし、
favorable や of favor は「好ましい」の意味です。
(この of favor はちょっと紛らわしいですが。)
いずれにしても、6・1は grace と訳して
ちゃんと区別しています。

ここもクリスチャンに人気のある個所です。
「今は恵みの時」という言葉で検索したら、
その引用例はいくらでも見つかります。
たとえば、「TLCSニュース」2009/03/11のブログです。
http://tlcs.mo-blog.jp/blog/2009/03/post_3d2d.html

以下、引用です。

  今は恵みの時

  「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いのに日に
  あなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの
  日です。  IIコリント6:2
  今日。今。まさにこの瞬間。計り知れない神様の恵みが
  私たちの上にあり、「来てわたしの恵みを受け取り
  なさい」と神様は私たちを導いておられます。
  神様がこれまであなたに差し伸べてくださった数多くの
  恵みや出来事を思い出してみましょう。

以上、引用です。

もし「この原文に恵みという言葉は無い」ということを
知ったら、この個所を愛する人は何と思うことでしょうか。

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第2コリントス5:20

★田川訳
 神が我々をとおして(人々に)呼びかけるがままに、
 我々はキリストの代りの使者として働いている。
 だから我々はキリストに代って願う、
 あなた方は神と和解しなさい。

★新改訳
 こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。
 ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
 私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。
 神の和解を受け入れなさい。

以前も書きましたが、田川の「呼びかける」が直訳です。
ただ、何のために呼びかけるのかを文脈から判断して、
「勧める」とか「慰める」とか訳すことが多いようです。

しかし、翻訳者の判断が合っている保証はありません。
ですから、このようなところはそのまま「呼びかける」
と訳して、判断は読者に任せてもらいたいところです。

この個所では、明治訳以来ずっと「勧める」と訳してきた
のに、新改訳だけが「懇願する」と訳しています。

おそらく、KJV以来の英語訳がそう訳しているので、
それに倣ったのでしょう。
そして英語がそう訳したのは(ティンダル以来のようですが)
「神が呼びかけているように(as)」ではなく、
「神が呼びかけているかのように(as though)」と読んだ
からでしょう。

つまり、神が人間に懇願するなどありえないのに、
まるで懇願するかのように、愛情をもって呼びかけている
のだぞ、ということです。

しかし「神が懇願する」というのは、やはり奇妙な感じです。
口語訳などの「神が勧めをなさるのであるから」のほうが、
ずっと素直な訳し方だと思います。
(もちろんそのまま「呼びかける」と訳してもらったほうが
いいのですが。)

しかも困ったことに、新改訳の読者の多くが、
この「かのように」という意味合いを受け取っていません。
文字通り「神が人間に懇願しているのだ」と受け取り、
しかもそれを奇妙だとも思っていません。

その実例は「神が私たちを通して懇願しておられる」という
言葉で検索すれば、いくらでも見つかります。
たとえば、松永堡智師の2008/08/03のブログです。
http://blog.livedoor.jp/niitsu_fukuin/archives/2008-08.html

以下、引用です。

  神の懇願
  ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。
  Ⅱコリント5:20

  私の罪を赦すために、ご自分のひとり子イエス・キリストの
  いのちをお与えになった神様が私に、懇願しておられると
  いうのです。懇願するとは「ねんごろに願う」「節に願う」
  と言う意味です。
  神様が私に何をそんなに願っておられるのでしょうか。
  キリストの使節として「わたし(神)とあなたの家族の間に
  入って和解の勤めを果たして下さい。」とお願いしておられ
  るのです。そのために「和解のことば」を委ねて下ったので
  す。和解のことば=福音=永遠のいのちに至る約束、こんな
  に高価な贈り物を、この贈り物を用いて、あの人にも、この
  人にも、わたし(神)と和解するようにと勧めて欲しいとお
  願いされているのです。この願いに精一杯、力の限り答えた
  いのです。

以上、引用です。

何度も言いますが、この「懇願」というのは新改訳が持ち込んだ
解釈であって、原文にはありません。
「かのように」という意味合いを見過ごし、原文に無い単語に
こだわって、いったいなんの真理が語れるというのでしょうか。

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第2コリントス5:17

★田川訳
 だから、誰かがキリストにあるならば、
 その者は新しい被造物である。
 古いものは過ぎ去った。見よ、新しいものが生じたのだ。

★新改訳
 だれでもキリストのうちにあるなら、
 その人は新しく造られた者です。
 古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

クリスチャンに非常に人気のある個所です。

しかし、明治訳やKJVのような古い訳はともかくとして、
それ以降の英訳には「すべてが」はありません。
日本語でも大正訳ですでに無くなっています。

それは当然といえば当然で、写本の重要性から言えば、
含まないほうが圧倒的に有利だからです。

ところが新改訳や口語訳は、理由は分かりませんが、
「すべてが新しくなった」と訳しています。

こう訳していなければ、多分、この個所の人気は
もう少し低かったのではないでしょうか?

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第2コリントス4:1

★田川訳
 この故に、我々は憐れみを受けてこの務めをなしているので、
 さぼることはしない。

★新改訳
 こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに
 任じられているのですから、勇気を失うことなく、

「さぼる」と「勇気を失う」ではずいぶん違います。
田川によると、この単語の普通の意味は「怠慢である、さぼる、
さぼって実行しない」だそうです(426ページ)。

怠惰というのはやる気が無いことですが、
やる気の無くなった理由を読み込むことで訳が変わってきます。
飽きてやる気が無いのなら「倦む」、
不幸や失望のせいなら「落胆」、
おそれや恥ずかしさのせいなら「勇気を失う」でしょうか。

ちなみに、大抵の翻訳がここを「落胆する」と訳しています。
大正訳、口語訳、新共同訳がそうです。
英語でもKJVはfaint(気力を無くす)ですが、
RSV,NASB,NIVがlose heart(がっかりする)と訳しています。
一方、明治訳は「臆す」と訳しています。
新改訳はこれを受け継いでいるようです。

しかし、この個所では何のせいで怠惰になるのか
はっきりしませんから、理由を読み込むような訳は避けて、
田川のように「さぼる」としておくのがよさそうです。

残念なことに、田川も、
訳語を統一しきれているわけではありません。
たとえばガラティア6:9ではこう訳しています。

 我々は、善をなすにあたって、倦むことがないようにしよう。

ここはやはり、訳語を統一して、
「善をなすにあたって、さぼることがないようにしよう」
と訳してほしかったところです。

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第2コリントス3:15-16

★田川訳
 だが今日にいたるまで、モーセが読まれる時には、
 彼らの心には覆いがかぶされたままである。
 しかしモーセが主の方に向く時には、
 覆いは取り除けられる。

★新改訳
 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときは
 いつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
 しかし、が主に向くなら、
 そのおおいは取り除かれるのです。

この「主の方を向く」という動詞は、三人称単数形で、
主語は明示されていません。

それで明治訳も大正訳も口語訳も新共同訳も主語を明示
せずに訳し、新改訳は不特定の「人」を補っています。
KJVはおそらく「彼らの心」を指して「それ」(it)と訳し、
他は不特定の人を意味する語で訳しています。

基本的にどの訳も、16節を回心を勧める説教のように
訳しています。「主の方を向きなさい。そうすれば、
心の覆いが取り除かれます」という感じで。

しかし、田川はこう註に記しています。
「『向く』という三人称単数の動詞の主語は明瞭にモーセ
である。前文の三人称単数を受けるから、ほかの可能性は
ありえない。」(423ページ)

確かに「モーセが読まれる時には~。しかし主の方を向く
時には~。」と言っているのですから、
主語は同じ「モーセ」と考えるのが自然です。

とすると、ここは回心の勧めではなく、
すぐ前の7節や13節と同じ流れで、出エジプト記の記事に
言及しているのだということになります。
「モーセはヤハヴェと語るために中に入ってヤハヴェの前に
出るときには、出てくるまでヴェールをはずしていた。」
(出エジプト34:34、関根訳)

つまり、「モーセも主の方に向くときには覆いを外す。
だから我々も主の方に向くときは覆いなどしないのだ」
という感じでしょうか。

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第2コリントス2:5

★田川訳
 もしも誰かが苦痛を与えたとしても、
 私に対して与えたわけではない。
 いや、何ほどかは私に対しても苦痛を与えたけれども、
 それは、あなた方みんなに負担をかけないためであった。

★新改訳
 もしある人が悲しみのもとになったとすれば、
 その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度
 ──というのは言い過ぎにならないためですが──
 あなたがた全部を悲しませたのです。

ここは、コンマの有無で随分意味が変わる面白い個所なので、
載せてみました。

まず、語順どおり直訳すると、こんな感じになるようです。

 ①もしも誰かが苦痛を与えたとしても
 ②私に対して与えたのではない
 ③いや、何ほどかは
 ④負担をかけないために
 ⑤あなた方みんなに

田川は、④と⑤の間にコンマを入れずに続けています。
そうすると③は「いや、何ほどかは私にも苦痛を与えたが」
という意味の省略した言い方ということになります。

英語訳では、KJVが田川と同じように訳しています。
というか、それ以前はルターもヴルガータも
そう訳しているそうです(408ページ)。

一方、④と⑤の間にコンマを入れて、④を前後から切り離し、
③と⑤をつなげると、新改訳のようになります。
(その際、④は「言葉に負担をかけない」
つまり「言い過ぎない」という意味に解釈されます。)

このように訳すのが現代の通説だそうです。
RSVなどの英訳や、明治訳以来の日本語訳も、
その方向で訳しています。

もっとも、「言い過ぎない」にも2通りの解釈があるようです。
「あまり大げさに言わない」という趣旨なのは、
口語訳と新共同訳です。
「あまり厳しく言わない」という趣旨なのは、
明治訳、大正訳、RSV、NIVです。
新改訳とNASBはどちらにもとれるように訳しています。

このように見てみると、どちらでもよさそうですが、
この通説には大きな問題点があるそうです。
それは、④の動詞を目的語無しで使う用例が他にまったく
存在しないことです。

他に用例が無いのに、「この個所の『負担をかけない』という
表現は『言い過ぎない』という意味だ」と言われても、
かなり胡散臭い気がします。

④と⑤を続けて「あなた方みんなに(金銭的)負担をかけない
ために」という意味であれば、ごく普通の用法のようです。
「兄弟たちよ、我らの労苦と努力を思い出してほしい。
夜も昼も働いてあなた方の誰にも負担をかけないように
しながら、神の福音をあなた方に伝えたのであった」
(1テサ2:9)。

とすると、パウロの言う苦痛とは、コリントの教会で起こった
何かの金銭的トラブルのことなのでしょうか。
田川はその可能性を註に示唆しています。

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